チベットを巡る国際協定・情勢の推移

ダラムサラと北京 関係年表
1939年 | ダライ・ラマ14世即位。 | |
---|---|---|
1949年 | 中華人民共和国成立。 | |
1950年 | 中国人民解放軍、東チベットのチャムドを征服。 | |
1951年 | 5月 | 中国、チベット政府代表団に北京で「チベット解放17ヶ条協定」に無理矢理調印させる。 |
10月 | 中国人民解放軍、ラサに進駐。 | |
1954年 | ダライ・ラマとパンチェン・ラマが共に北京を訪問する。毛沢東、周恩来らと会見。 | |
1956年 | 東チベットでゲリラによる中国への抵抗運動が高まる。中国により、東および北チベットの僧院はほとんど破壊される。 | |
1959年 | 3月 | チベット民族蜂起。ダライ・ラマ、インドへ亡命。アイルランドなどが国連総会に「チベット問題」に関する決議案を提出、採択される。 |
1960年 | ダライ・ラマがインド・ダラムサラにチベット亡命政権を設立。 | |
1964年 | パンチェン・ラマがダライ・ラマ支持の演説をして投獄される。 | |
1965年 | 9月 | チベット自治区成立。 |
1966年 | 中国で文化大革命。チベットの多くの僧たちが批判集会に引きずり出され、拷問迫害を受ける。 | |
1976年 | 1月 | 周恩来、没。 |
9月 | 毛沢東、没。 | |
1979年 | 1月 | 米中国交回復。 中国のトウ小平は、ダライ・ラマの兄、ギャロ・トゥンドゥップを招き、「完全な独立は別として、他の全ての問題は論議され、解決される」と告げる。 |
8月 | カロン・ジュチェン・トゥプテン・ナムギャル率いるチベット亡命政権の第一次使節団がチベット視察を開始。 | |
1980年 | 5月 | テンジン・テトン率いる第二次使節団、 チベット視察を開始。 |
7月 | ダライ・ラマの妹ジェツン・ペマ率いる第三次使節団、チベット視察を開始。 | |
1981年 | 3月 | ダライ・ラマが第三次までの使節団からチベットの報告を受け、トウ小平に宛てて、「この問題を様々な現状に則して、より良い方法で解決するためには、誠実な努力が必要」と書面を送る。 |
1982年 | 4月 | 実地調査継続の中国側との交渉のため、三名のチベット亡命政権の代表が北京に派遣されるが、実質的に進歩なし。 |
1984年 | 10月 | 三名の代表使節団は、中国側と二回目の交渉に入るが、実施的な交渉に向けての進展は望めず。 |
1985年 | クンデリン率いる第四次使節団、チベットへ出発。 | |
7月 | 米国国会議員91名、中国政府とチベット亡命政権の直接会談指示を表明する李先念宛ての書簡に署名。 | |
1987年 | 9月 | ダライ・ラマがチベット問題解決の為の「和平五項目プラン」を米国下院人権問題小委員会に提案。この提案には、チベットの未来をかけた重大な交渉開始の声明が含まれている。 |
ラサのデプン僧院でデモが起こる。 | ||
10月 | ラサのセラ僧院でデモが起こる。 | |
12月 | 米国務省は、「合衆国は、チベットの未来に向け建設的な対話を確立しようとするダライ・ラマの努力に積極的に応えるよう、中国政府に強く主張する」と宣言。 | |
1988年 | 3月 | ラサで大規模なデモが起こる。 |
6月 | ダライ・ラマがフランスのストラスブールの欧州議会で、チベット問題の交渉による解決のための項目案について説明。_小平の声明の基礎である中国側と会う用意があるとも言及。 | |
9月 | 中国側は、ストラスブールで出された対談要請に間接的に答えて、「我々はいつでもダライ・ラマが中央政府に会談に来ることを歓迎する。北京でも香港でも海外の大使館や領事館でもよい。ダライ・ラマがそれらの場所で会談するのが不都合なら、望む場所を選んでよい」とし、「チベットの独立の件は出さない」ことを条件として出してきた。 チベット亡命政権代表者らは、中国のメッセージに対する答えを下記のように引き続き伝える。 「チベット問題についてのダライ・ラマ法王の声明に対する中国の積極的な対応を歓迎する。また、会談の開催地の選択を任されたことについても歓迎する。私たちは、最も都合がよく中立的な開催地となり得るスイスのジュネーブで一九八九年の一月に会談を開くことを希望する」 |
|
11月 | 胡錦涛が中国共産党チベット自治区党委員会書記に就任(名実共にチベットのナンバーワンの地位)。 | |
1989年 | 1月 | パンチェン・ラマ十世急死。死の直前に中国政府を糾弾する演説をしていた。中国は会談の約束を反古にする。 |
3月 | ラサで大規模なデモが起こる。その三日後、戒厳令が敷かれる。当局による取締りが激化。米上院は、チベットの未来に向けての進歩的・建設的な対話をダライ・ラマの代表者と会って始めるよう、八十二項目の決議文を中国政府に申し渡す。 | |
4月 | チベット亡命政権は、交渉を開始するにあたっての手続き上の問題を解決するために中国の代表者と会うことについて、「ダライ・ラマ法王はいつでも香港に代表者を送る用意がある」と発表。 | |
6月 | 「北京の春」天安門事件が起きる。 | |
12月 | ダライ・ラマ ノーベル平和賞受賞。 | |
1991年 | 10月 | エール大学の演説で、ダライ・ラマは短期間でもチベットへ戻る許可を中国に働きかける支持を訴える。彼は、「できる限り、早い時期」にチベットへ行く準備があることを明言。それに対して、中国外務省は、ダライ・ラマがチベットへ戻ることについて、「その前に彼が、中国国家の分裂を目的とした土台を崩すような動きを止め、チベットの独立を断念することが最も重要である」と牽制。 |
1992年 | 6月 | 中国共産党中央委員会の共同戦線部門のリーダーが、ギャロ・トゥンドゥップと会い、「『完全なる独立』の課題を除いたチベットの問題を論議するつもりである」と繰り返し1979年の声明について述べる。 |
1993年 | 5月 | 最恵国候補会議に関して、ホワイトハウスが発表。「中国は、ダライ・ラマかチベット亡命政権代表者と再び対話の席につくことで、最恵国を確実にするはずだ」 |
1994年 | 4月 | ダライ・ラマは、クリントン大統領とゴア副大統領と対談。ホワイトハウスの発表によると、クリントン大統領はダライ・ラマに、「中国首脳との対話実現のために努力してほしい。合衆国は、中国政府とダライ・ラマ双方の質の高い話し合いが行われるよう強く求め続ける」と言及 |
1995年 | 11月 | 中国は、ダライ・ラマからパンチェン・ラマの転生者を選ぶ権利を奪おうとし、そのことで中国政府とダラムサラの関係は急速に悪化する。 |
1997年 | 7月 | クリントン政権は、国務省にチベット問題を扱う役職「チベット問題調整官」を置く意向を発表。そのポストの主要目的は。チベット問題を解決するため対話を促進することにある。 |
10月 | ワシントンでの米中サミットの際、クリントン大統領は江沢民中国国家主席に、ダライ・ラマと対話を始めるよう強く要請。チベット問題は、米中関係において米国民が出した最優先課題の一つであるとした。 | |
1998年 | 4月 | オルブライト国務長官は江沢民主席に、6月の主要先進国首脳会議においてチベット問題が米国の優先課題であることを明言。「米国が中国に求めるのは、ダライ・ラマとの対話である」とオルブライト国務長官は、会談後の記者会見で述べる。 |
5月 | ラサのダプチ刑務所でデモが起こる。 | |
6月 | クリントン大統領は、全中国に放映された北京での記者会見で、江沢民主席がダライ・ラマと話し合いを持つよう強く促す発言をする。江沢民主席は、話し合いが非公式にありうることも示唆し、「交渉の扉は開かれている」と述べる。 | |
2001年 | 7月 | 胡錦涛副主席がラサでスピーチ。「ダライの一派、そして世界中の反中国勢力による分離活動を断固として鎮圧し、チベット地域の安定と統一を積極的に推進し、国家の団結と安全保障を確実にすることが不可欠である」と述べる。 |
2002年 | 9月 | チベット亡命政権使節団、チベット入り。 |
11月 | 胡錦涛が中国共産党総書記に就任。 |
中華民国との関係(1911-1949年)
チベット亡命政権 情報・国際関係省著「チベット入門」より抜粋
この時期(1911年〜1949年)、中国の立場はいまひとつ明確でない。国民党政府[=中華民国政府]は、その憲法、あるいは海外向け報道のなかで、チベットが中華民国の1地方(民国の「5民族(漢族、チベット族、満族、モンゴル族、ウイグル族)」のひとつ)だと一方的に公言していた。しかし一方で、チベット政府と交わされた公式文書のなかで、国民党政府はチベットが中国の1部でないことを認めている。そのうえで、中華民国総統はダライ・ラマ13世とチベット政府に書簡や使節を何度も送り、チベットも中華民国に「参加」しないかと呼びかけた。同じことはネパール政府にも通達された。チベットもネパールも、これを一貫して拒否している。
中華民国大総統・袁世凱(えんせいがい)からの第一信に対し、ダライ・ラマ13世は民国参加の要請を拒否した。その釈明文は慇懃(いんぎん)ながらも毅然として、チベット人民は過去の不当な行いから国民政府に「賛意を示さない」と述べ、さらに以下のように書いている。
中華民国は成立したばかりでありますゆえ、まだ国の基礎が固まっていないとお見受けいたします。大総統にとりまして、今は国内の秩序維持のためにエネルギーを注ぐべきときではないでしょうか。チベットの件につきましては、チベット人民は現状のままで十分に国を維持してゆくことができます。大総統には、このような遠方の些事のことで、心をお砕きいただくには及びません。 |
1919年にダライ・ラマ13世が北京から派遣された「使節」に向けて述べたという言葉を、中国の白書は次のように引用している。
「イギリスと親しくするのは私の本意ではありません。(中略)私はチベットに忠誠であることを誓い、5民族の幸福を目指しています」 |
同じ年、非公式の代表団がラサを訪れた。ダライ・ラマに布施を献上するというのが表向きの訪問理由だったが、そのじつダライ・ラマを説得し、民国参加の同意を取りつけようというのが真の狙いだった。ダライ・ラマは交渉の提案を一蹴し、そのかわりラサで改めて3者交渉を開くことを提案した。
チベット人と中国人の混血女性であった劉曼郷(りゅうまんごう)がラサ入りしたのは、1930年のことだった。訪問は私用だと伝えられていたにもかかわらず、彼女は袁世凱の意を受け、チベット政府への接近を試みた。だが、チベット人の反応は冷やかだった。
中国の白書では、ダライ・ラマ13世が自身はチベットを中国の1部だと考えていると、彼女を通して表明したとする。白書の引用に言う。
「私がもっとも望んでいるのは、中国の真の平和と統一なのです……」 |
しかし歴史記録をひもといても、ダライ・ラマ13世が同年にこのような発言をしたという記録は存在しない。むしろチベットの公式記録に記された、1930年にダライ・ラマが大総統に送った返答の記録内容は、白書の記述と食い違っている。この公式記録には、袁世凱がダライ・ラマに送った8件の質問と、それに対するダライ・ラマの回答とが記されている。
対中関係および中国のチベット支配について、ダライ・ラマ13世は次のように述べている。
チベットの聖教一致体制を安定に保ち、チベット人の幸福を守るためには、交渉に応じて条約を結ぶべきなのかもしれません。そうすれば、信頼できる取り決めが生まれる余地もあるでしょう。 |
また、チベットの独立、および中国に返還を要求している国境地帯については、次のように語っている。
「僧侶と施主」という、長らく続いてきた両国の関係の下で、チベットは自由な独立気風を享受してきました。これからもそうであってほしいと願っています。失った国境沿いの土地をチベットに返していただけるのでしたら、2国間の安定は今後も続くでありましょう。 |
ほかにも黄慕松(こうぼしょう)将軍が1934年に、また呉忠信(ごちゅうしん)が1940年にそれぞれチベット入りしているが、チベット政府はいずれに対しても、独立維持の意向を明確に表明している。1933年に崩御したダライ・ラマ13世の摂政にレティン・リンポチェが任命された件について、中国の白書では、中国政府ないし「特別使節」(黄慕松のこと)が摂政の任命に関与したかのように書かれている。しかし実際のところ、中国または中国の使節が摂政の任命に関与したことなどなかったのである。
黄慕松は1911年以来、公務でのチベット入りを許された初めての中国人だった。チベット人が彼の入国を拒まなかったのは、故ダライ・ラマ13世への弔問に布施を携えてやって来たからに他ならない。黄慕松は1934年4月にラサに到着し、レティン・リンポチェはその3カ月後に摂政となった。国民議会(ツォンドゥ)は摂政として、
- レティン・リンポチェ
- ガンデン・ティパ・イェシェー・ワンデン
- プルチョク・リンポチェ
の3人を候補に選んでいた。そしてポタラ宮観音像の前で行われた抽籤(ちゅうせん)の儀式により、3人の中からレティン・リンポチェが摂政として選ばれたのだった。
また白書によれば、1931年と1946年の両年、南京で開かれた中華民国の国民議会に、チベット政府の役人が派遣されたことになっている。しかし1931年の場合、ダライ・ラマ13世がケンポ・クンチョク・ジュンネを南京に送った目的は、中国との交渉を継続するため、南京に臨時渉外本部を準備することであった。同様に、1946年にチベット使節団がデリーと南京に送られたのも、第2次大戦の連合国の勝利を、英米両国と中国にそれぞれ祝うためだった。一行は、国民議会に出席する指示も権限も与えられていなかった。現ダライ・ラマ14世は1959年8月29日、国際法律家委員会の法律査問委員会の席上でこの件についてこう語っている。
「一行(南京のチベット代表団)は、会議に対して何ら公的な役割を担っていませんでした。中国の政治宣伝に利用されるだけだと気づき、わが政府は出席するなと電報を打ったのです」 |
国民党政府が蒙蔵委員会を設立したことにしても、チベットが中華民国の領土だとする主張を形式的に補ったにすぎない。台湾の国民党政府はいまだこの委員会を存続させ、チベットばかりかモンゴル全域の支配権まで−しかも1924年、国際的に独立を認められたモンゴル国の支配権をも−所有すると主張している。もちろん、チベット政府はこの委員会など認めたことはないし、また、同委員会がチベットに関する権限をもったこともない。