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チャデル・リンポチェの安否不明

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2001年8月24日
ダラムサラ(TCHRD チベット人権民主センター)

タシ・ルンポ僧院長であり、第十代パンチェン・ラマ継承者選定委員会の責任者である62歳のチャデル・リンポチェが、今年5月に拘禁期間が終了するはずであったにもかかわらず、姿をあらわしていないことから、チベット人の間に懸念が深まっている。チャデル・リンポチェは、「国家分裂勢力と共謀した」容疑で1995年5月17日に逮捕されたが、法廷で判決を受けたのは2年後であった。

TCHRDが得た情報によると、ラサとタシ・ルンポ僧院周辺のシガツェのチベット人は、リンポチェの釈放と、現在の所在、健康状態に関する情報がまったく無いことに対して、深い憂慮を表明している。チャデル・リンポチェの6年間の禁固期間は、2001年5月に終了するはずであった。リンポチェ釈放の情報が得られないことから、生存していないのではないかという憂慮が深まっている。

中国の刑事訴訟修正法では、逮捕当日から始まる拘留期間は禁固期間に算定することを規定している。これに従えば、チャデル・リンポチェの逮捕が1995年5月17日であったことから、禁固期間は2001年5月16日には終了しているはずである。

「チャデル・リンポチェの不当な拘留は、中国政府が国際法だけでなく国内法までも完全に無視していることを証明するものである。これは、中国が1998年10月に批准した、不当な拘留を不法とする国際民権政治権協定の第9条に対する明白な侵害である」と、ダラムサラにあるチベット人権民主センター所長のロブサン・ニャンダック・ザユル氏は語った。

1995年5月14日、ダライ・ラマは、当時6歳だったゲドゥン・チューキ・ニマを、パンチェン・ラマ十世の生まれ変わりとして発表した。その3日後に中国当局は、チャデル・リンポチェと補佐役のジャンパ・チュンを四川省の成都空港で逮捕した。

1997年4月21日、2年間の隔離拘留の後、シガツェ中級人民法廷は非公開裁判を行って、チャデル・リンポチェと補佐役に判決を下した。1997年5月、中国国営通信社である新華社通信は、リンポチェに対する判決は中華人民共和国刑事訴訟法の92条、186条第1項、23条、24条、51条、64条及び59条第2項によるものであると発表した。

チャデル・リンポチェは、「国家分裂の陰謀」と「国家機密漏洩」により、禁固6年とさらに3年間の政治権剥奪の判決を受けた。判決の4ヶ月後、中国外務省スポークスマンのチェン・ジャンは、チャデル・リンポチェが「病気のため入院中」であり、拘留されていないと語った。50歳の僧侶でありチャデル・リンポチェの補佐役であるジャンパ・チュンは、同罪名により、禁固4年とさらに2年間の政治権剥奪を宣告された。

リンポチェの拘留場所に関する情報が得られたのは、ようやく1997年9月頃のことである。初めはトロチュ郡(中国名:ヘイシュイ)に収容されていたが、その後、四川省タジュ郡チュアンドン第3刑務所に収容された。ここは非常に重要な政治犯を収監する刑務所である。伝えられるところでは、チャデル・リンポチェは、判決後の4月下旬か5月初旬に、この刑務所の中の「獄中獄」と呼ばれる特別棟に収容された。リンポチェは、面会と外部との接触が全面禁止されていることに抵抗して、7月にハンガーストライキを行ったが、健康状態が非常に悪化していると伝えられていた。

逮捕されるまで、チャデル・リンポチェは、民権行政組織の責任者とタシ・ルンポ僧院民主運営委員会の委員長を兼務していた。リンポチェはまた、中国人民政治協議会(CPPCC)の委員であり、「チベット自治区(TAR)」CPPCCの副委員長でもあった。

1989年に中国当局は、チャデル・リンポチェに、パンチェン・ラマ十世生まれ変わり探索のための公式委員会の委員長を委任した。中国政府の承認を受けて、師は、パンチェン・ラマ生まれ変わり問題に関して、ダライ・ラマと中国政府双方が受け入れられる候補者を策定するべく、ダライ・ラマと連絡を保っていた。

1996年5月、チャデル・リンポチェは、「基本的原則に違反して愛国的姿勢を喪失した」として、すべての公職を解任された。1996年5月24日、ラサ・ラジオ放送は、「これによってわれわれは、中国人民政治協議会(CPPCC)から有害分子を粛清し浄化した」と発表した。