チベット亡命政権 情報・国際関係省著「チベット入門」より抜粋
チベットの年代譜によれば、初代チベット王がチベットを治めはじめたのは、紀元前127年のことだという。しかし、チベットが統一国家としてソンツェン・ガンポ王の下で強大な帝国になって現れるのは、7世紀に入ってからのことだった。この王の統治下に、政治・軍事の覇権と領土拡張の時代が幕を開け、その隆盛は3世紀もの間、続くことになる。またネパールと唐の王室は、娘をソンツェン・ガンポに嫁がせた。
ネパールと唐の皇女を妃に迎えたことは、チベットにとってとくに意義が深かった。というのも、チベットに仏教が広がるうえで、2人は重要な役割を果たしたからだ。中国の宣伝工作(プロパガンダ)は、ソンツェン・ガンポ王と唐の皇女・文成(ぶんせい)公主との結婚に、政治的な意義をもたせるのを常とするが、他の妃たち−とりわけ文成公主よりいくらか影響力があったとされるネパールの花嫁−については、いつも都合よく忘れ去っている。
ティソン・デツェン王(在位755〜797)は中国の1部を征服し、チベットの領土を拡張した。763年には唐の都・長安(現・西安)を攻略したため、唐はチベットへの朝貢を余儀なくされる。783年には条約が結ばれ、唐とチベットの国境線が定められた(建中の会盟)。ポタラ宮の裾に置かれた石碑の碑文が、当時の状況を刻んでいる。
アジアのこの2大国の関係を探るうえで、821年に結ばれた唐との平和条約(長慶の会盟)は、とくに重要である。条文はチベット語と漢文で書かれ、三柱の石碑に刻まれた。ひとつはグング・メル山に置いて国境を示し、2本目はラサに(現存する)、3本目は唐の都・長安に建てられた。中国の白書には、石碑から引用したという1節が記載されている。しかし内容の不正確さもさることながら、前後関係が不明であるため、あたかも条約によって1種の「併合」が実現したかのような印象を与えてしまう。そのような内容がでたらめであることは、以下に示す条文の主要な1節からも明らかだろう。
チベットおよび唐は、現在の国境を遵守すべし。国境の東はすべて大唐帝国に、西は大チベット帝国に帰す。これより後、いずれの国も兵を挙げて隣地を侵してはならない。 |
中国が白書に示した解釈は、まったく理解に苦しむものだ。白書には、次のように書かれている。
チベット人と漢人は、双方の皇室による通婚と同盟を通し、政治面では友好的な姻戚関係を固め、経済・文化の面でも緊密な関係を結び、統一国家建設にむけて堅固な基盤を築いた。 |
チベットと中国の史書を見る限り、このような解釈が成り立つことはない。両帝国は、それぞれ別の国として記載されているのである。
9世紀半ばになって、チベットはいくつかの地方国家に分裂した。チベット人の関心はインドやネパールに向けられ、宗教や文物による強い影響の下に、知的な文化が新しく花開いた。
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