Japanese translation by Maria Rinchen, 2003, revised 2016.
根本偈
聖観自在菩薩に礼拝いたします
今世においては、常にご本尊に瞑想する 死に直面した時は、ポワ(意識の転移)の教えに瞑想する 中有においては、融合に瞑想する 常に瞑想することがすべてにおいて重要である |
根本偈の内容は4つに分類される。

(1)今世の修行として毎日行なうご本尊の修行方法
第1偈
無常と苦しみについて思い起こし 大いなる慈悲の心を起こして 頭頂にラマ(師)、心臓にご本尊を観想し 我が心は不生であると瞑想するべきである |
これらの教えを実践するために4つの秘訣が示されている。
- 勇気を奮い起こすための条件に関する秘訣
- 実践の本行となる菩提心の瞑想に関する秘訣
- ラマ(師)とご本尊に祈願する方法に関する秘訣
- 我が心は不生であるという本質に瞑想するための秘訣
(2)死に直面した時の修行である「ポワ」(意識の転移)についての解説
第2偈
自分のからだを供物として捧げ 依存しているすべてのものを捨て 光の管の修行によって 心を兜率天(歓喜の地)に向けて飛ばしなさい |
この実践には三つの要点がある。
- 「ポワ」の修行を成就する妨げとなる条件をなくすこと
- 「ポワ」の修行を成就するために必要な条件を整えること
- 実際の本行となる「ポワ」の実践について
(4)これらに加えて、見解、瞑想、実践の重要な点を示す
現れてくるすべてのものを認識すること、これが見解の真髄である それから心をそらさないこと、これが瞑想の真髄である 注意深さ(憶念)の味を平衡に保つこと、これが実践の真髄である これが偉大なる成就者〔ミトラジョーキ〕の教えである |
『三つの真髄の教え』についてのこのわかりやすい註釈書は、教えと教えの維持者に対する変わらぬ最高の信心を持ち、恵まれない人々に施しの手を広くさしのべられた偉大なる有情の母、パルデン・イェシェ・チュドゥンの深遠なる修行をますます高めるために、説法者であり、誉れ高き尊者〔ダライ・ラマ二世〕ゲンドゥン・ギャツォによりオルカ・タクツェルの宮殿において著され、サンゲ・ゴンポという人によって書き記された。
Japanese translation by Maria Rinchen, 2003, revised 2016.
Japanese translation by Maria Rinchen, 2003, revised 2016.

聖観自在菩薩に礼拝いたします
無数の勝利者たちの智慧と慈悲は誰の心をも鎮める様々な手段として現われる聖観自在菩薩として知られる旗を持つ三界の有情の唯一の友であるあなたに礼拝いたします
ここに顕教と密教の経典の意味を今世と、死に直面した時と、中有の修行として善く集約して示された最高の教えをわかりやすい言葉の花飾りとして綴ります
『三つの心髄の教え』として広く知られている聖観自在菩薩の瞑想修行法は、成就者ミトラジョーキによって翻訳官トロプ・ローツァワ・ジャンパ・ペルに法の贈り物として授けられた教えである。尊者ミトラジョーキの伝記、この教えの偉大な特徴、前行の修行方法などについては、過去のラマたちによる註釈書の中に詳しく説明されているので、それらを読んで学ぶべきである。ここでは、実際に瞑想修行を行なう際、どのような順序で瞑想を進めていくべきかが非常にわかりやすく説明されており、その内容は次の二つの項目に分類されている。
[1]源となる根本偈の引用
根本偈には次のように述べられている。
今世においては、常にご本尊に瞑想する 死に直面した時は、ポワ(意識の転移)の教えに瞑想する 中有においては、融合に瞑想する 常に瞑想することがすべてにおいて重要である |
1行目では今世における修行について、2行目では死に直面した時の修行について、3行目では中有における修行についての教えが示されており、4行目はこのすべてに言及されている。このうち「ポワ」と「融合」の二つの修行は、死に直面した時と中有においてなすべき修行であるが、これらの修行が思い通り役立つものとなるためには、今この時よりその実践をしていく必要がある。その修行方法については、ある日は非常に集中して行ない、ある日はいい加減に行なうなどということのないように、川の流れのように細く長く続けていくべきである
[2]その実践方法について
1. 勇気を奮い起こすための条件に関する秘訣
これは第1偈の1行目に示されており、「無常について思い起こす」ことと「苦しみについて思い起こす」ことが結び付けられている。「無常について思い起こす」ことは今世に対する執着をなくすための因として、死はいつやって来るかわからないということを考える「死についての無常」に瞑想することである。「苦しみについて思い起こす」とは、輪廻に存在するものはすべて苦しみの本質を持つものであることを認識することによって、輪廻におけるすばらしいものに対する執着をなくすことであり、輪廻からの解脱を得たいと願う真摯な心を起こすための手段となっている。そしてこの二つが示しているのは、初級の修行者(下士)に共通する修行道の段階で心を訓練していく方法と、中級の修行者(中士)に共通する修行道の段階において心を訓練していく方法であり、これらの修行は今この時から実践していくべきである。それについてここで説明すると詳しくなり過ぎるので、ジェ・ツォンカパの『菩提道次第論』を読んで学ぶべきである。
2. 実践の本行となる菩提心の瞑想に関する秘訣
「大いなる慈悲の心を起こして」という第1偈の2行目のお言葉は、自分自身が輪廻から解脱することを求めるだけではなく、一切有情の救済と幸せを達成するためにその責任を自分ひとりが背負っていこうという決意を固め、その目的を果たすために最もすぐれた悟り(一切智の境地)を得ようという菩提心を起こして、菩薩の修行を実践したいという願いを強く起こす必要があることを意味している。菩提心を育むためには、「因と果の七つの教え」による方法と、「自分と他者の立場を入れ替えて考える」という方法の二つがある。これらについても、『菩提道次第論』と大乗の「心の訓練」の教えを学ぶことにより理解するべきである。
3. ラマ(師)とご本尊に祈願する方法に関する秘訣
第1偈の3行目には、「頭頂にラマ(師)、心臓にご本尊を観想し」と言われている。自分が最もすぐれた悟りを得るために二つの資糧を完全に積んで仏陀となった時、一切有情を輪廻から解放すること以外になすべき価値のあることは何もない。しかし今の自分にはそのような力は備わっていないため、耐え難い輪廻の苦しみと三悪趣の苦しみから一切有情を今すぐ守護してくださる帰依のよりどころが必要となる。そこで、聖観自在菩薩と恵まれた時代における千の仏陀たちに助けを求め祈願しなければならないと考えて、
自分の頭頂に水晶のように白く清らかで、千の扉を持った仏舎利塔を観想する。
その仏舎利塔は透明で、外側から内側をはっきりと見ることができるような光の本質でできている。仏舎利塔の中には、蓮華座と月輪の上に、恩深き根本のラマの本質を持つ至高なる聖観自在菩薩が雪山のように白いおからだで、一面四臂のお姿で坐っておられる。そのうちの二本の手は心臓の前で合掌され、下の右手は水晶の数珠を持ち、下の左手は白い蓮華を持っておられる。足は結跏趺坐を組まれ、おからだには宝石の装飾品をつけ、様々な絹の衣をはおり、仏陀の持つ三十二相八十種好のすべてのしるしを備えた仏陀のお姿で、自性による成立のない空の本質を持つ虹のようなおからだで大きな光の束の中央に坐っておられる様子を観想する。千の扉には、恵まれた時代の千の仏陀たちがおられる。東のすべての扉には白いおからだの大日如来、南のすべての扉には黄色いおからだの宝生如来、西のすべての扉には赤いおからだの阿弥陀如来、北のすべての扉には緑色のおからだの不空成就如来がおられる。これは頭頂にラマを観想する時のやり方と同じである。いくつかの註釈書にはカサルパーニ観自在菩薩を観想するとされているが、聖観自在菩薩であるという意味において違いはない。現在では六字真言を唱える修行者は、4本の手を持つ観自在菩薩を観想してその真言を唱える修行者が多いのでこのように説明した。
次に、心臓の位置にご本尊を観想する方法について説明する。
自分の心臓の位置(からだの中心)に、千の花弁を持つ赤い蓮華が上向きに開いている様子を観想する。その中心に月輪があり、その上に自分の心と同じ本質を持つ、前に頭頂に観想したご本尊の聖観自在菩薩が坐っておられる。汚れのない白い光の本質を持つ千の「アー」の字が、千の花弁の上で光り輝いている。
聖観自在菩薩の心臓の位置にある月輪の上には白い「フリー」の字があり、その周りを真珠の数珠がまわっているように六字真言がまわる様子をよく観想する。そして、恵まれた時代の千の仏陀たちとともにおられる、ラマの本質を持つ頭頂の聖観自在菩薩を対象に、目に涙が浮かび、からだの毛穴がさざめきたつほどの強い信心の心を起こして、一点に集中した強い苦悩の気持ちでこのように懇願する。
「慈悲深いラマである聖観自在菩薩よ、私の父母である六道輪廻の有情たちが輪廻という苦しみの大海に沈み、守護者もなく、帰依のよりどころもなく、悲惨な状況に苦しんでいます。この有情たちを輪廻という苦しみの大海から今すぐに救済してください。いち早く救済してください。その場所で救済してください。」
このような強い願いをこめて祈願すると、頭頂の聖観自在菩薩のおからだから白い光が出てきて、心臓の位置におられる聖観自在菩薩にその光があたる。恵まれた時代の千の仏陀たちのおからだからも光が出て、心臓の位置にある千の「アー」の字にあたり、それによって心臓の位置にある千の「アー」の字とともにおられる聖観自在菩薩から、その本質と不二の智慧がはかりしれぬほどの白い甘露の現われとして流れ出てきて、からだ中がすべて甘露で一杯に満たされる。そして、身口意という三種の行ないによってなした悪い行ないや障害がその習気とともに、煤、石炭、さそりなどの姿で、からだの毛穴や感覚器官の入り口から黒い膿となってすべて外に流れ出ていってしまう。あなたのからだは、水晶の球の汚れが浄化されたように、三十二相八十種好のしるしを備えた清らかな聖観自在菩薩のおからだに完全に変容する。そして甘露の流れは、からだの毛穴や感覚器官の入り口から外に流れ出る。
最初に、この甘露は地獄界に届き、地獄のすべてが甘露で満たされる。地獄の者たちの熱地獄や寒地獄の苦しみと、その因となった業や煩悩をすべてその源から浄化してしまう。さらにこの甘露は、有情たちが住む環境世界にある燃える鉄の大地や、炎をあげて燃える鉄の家、氷でできた暗い不快な牢屋などのすべての悪い環境を一瞬にして滅し、宝珠のような本質を持ち、開かれて、広く、触れると柔らかく、幸せのみが存在する浄土に変容させてしまう。そこに住む生きものたちはみな聖観自在菩薩のお姿となり、自性による成立がなく、実体をもたない空の虹のようなからだに変わってしまったと観想する。
これと同様に、甘露の流れは順次、餓鬼界、畜生界、阿修羅界、人間界、欲界の神、色界と無色界の天人たちの住むところすべてに順々に届いていく。そして、餓鬼たちの飢えや渇きの苦しみ、互いに殺しあう愚かな動物たちの苦しみ、阿修羅たちの戦いの苦しみ、人間たちの生老病死の苦しみ、死がいつ訪れてその後悪い生に墜ちることを知る欲界の天人たちの苦しみ、色界と無色界の天人たちが持つ遍在的な苦しみなどと、これらの苦しみの因である業(カルマ)と煩悩のすべてを浄化し、清めて、これらの者たちが住む環境世界をすべて阿弥陀仏の浄土のように幸せのみが存在する清らかな場所に変えてしまう。そしてそこに住む有情たちもみな、聖観自在菩薩のお姿に変わったと観想する。
ここで六字真言を唱えたければ、聖者として観想した自分の口から出てくる真言の音が鳴り響き、聖観自在菩薩となった一切有情の口からもその真言の音が、すべての世界と存在を揺り動かしているかのように響いていると考え、真言をできるだけ多く唱える。
最後にセッションを終える時は、自分の心臓の位置におられるご本尊の心臓にある「フリー」字から光が出て、環境世界が阿弥陀仏の浄土のように清らかな場所に変わったと観想し、そこに光があたる。浄土のように清らかになった環境世界は、光の中に満ちて溶け、聖観自在菩薩のお姿になった有情たちの中に溶け込んでいく。それがまた光の中に満ちて溶け、自分の中に溶け込む。頭頂におられる聖観自在菩薩がその光の中に溶けて、心臓の位置におられる聖観自在菩薩の中に溶け入る。
恵まれた時代の千の仏陀たちは、心臓の位置にある千の「アー」字に溶け込み、仏舎利塔は虹が空に消えるように見えなくなってしまう。聖観自在菩薩である自分も、「アー」字とともにある心臓の蓮華の花弁に溶け、それもまた中心に坐している聖観自在菩薩に溶け、それもまた心臓の位置にある真言の数珠に溶け、それもまた中心の「フリー」字に溶け込む。最終的に「フリー」字さえ消えて見えなくなったと考えて、その状態を維持し、心を平衡に保って瞑想にとどまる。
4. 我が心は不生であるという本質に瞑想するための秘訣
第1偈の4行目には、「我が心は不生であると瞑想するべきである」と言われているが、自らの心は始まりなき遠い昔から生じたことはない、という心の本質(空)について瞑想するために、人無我と法無我という二つの瞑想修行の方法がある。顕教の観点のみから述べると、無始の時より私たちの心には、「私」という自我に対する強いとらわれの心が自然に現われてくる。その時の自分の心に、「私」という存在がどのように現われてくるかを観察してみると、自我にとらわれた心が見ている対象である「私」は、自分の五蘊の上に「私」という名前を与えられただけの存在としてではなく、無始の時から独立してそれ自体の側から成立しているかのように現われている。たとえば、家の梁を維持する働きをする木材を見る時、「これは柱だ」と思う心がごく自然に生じる。その柱がどのように心に現れているかを観察すると、柱と呼ばれる木材に対して、自分の心が「これは柱だ」と名づけているのではなく、自分の心が見ている対象物としての木材が、「柱」としてそれ自体の側から独立して成立しているかのように現れている。同様に、「私」という存在も、五蘊の上にそれ自体の側から独立して実体を持って存在しているのではない。
たとえば、「柱」とは梁を支えるための木材である。その木材に対し概念作用によって「柱」と名前をつけただけであり、「柱」がそれ自体の側から独立した実体を持って存在しているのではない。自分がその木材に対して「柱」という名前を与えない限り、「これは柱である」という心は生じず、それにはまだ「柱」という名前がついていないので、「柱」という言葉が使われることはない。故にその木材ははじめから「柱」として存在しているわけではないのである。のちにそれを「柱」と名づけることにより、その時からその木材を見ると「柱を見た」という概念が生じるのである。
同様に、子供が生まれるとすぐに「タシ」などと名前をつける。それによってその子供を見ると「タシだ」と思うのである。これについても、その子供自体の側から「タシ」としての実体が存在しているように心には現れてくるが、その子供自体の側から「タシ」という実体のある存在が成立しているわけではない。もしそうならば、その子供に「タシ」という名前をつける前から、その子を見ると「タシだ」という思いが生じるべきであるが、そのようなことはないからである。つまり、「タシ」といわれる子供は、「タシ」という名前をつけられた時から「タシ」となったのであり、「タシ」は単なる名前としてのみ成立しているにすぎない。
これらのたとえが示しているように、「私」「五蘊」などを始めとするすべての現象もまた、土台となる現象の上に、概念作用によって名義上の名前を与えただけの存在であり、その現象それ自体の側から成立している独立した実体は微塵もないのである。これを明確に理解し、心に確立しなければならない。そしてそのありように正しく瞑想し、瞑想から出た日常時においては、現われてくるすべての現象は、たとえ現れてきても、その現われのようにそれ自体の側から成立しているのではなく、空の本質として幻のように現われているに過ぎない、ということを学び、心になじませるべきである。
ここでは、すべての現象をどのようにとらえるべきか、短く理解しやすいように説明したが、これについてのより詳しい解説は他の典籍を読んで理解するとよい。
1. 「ポワ」の修行を成就する妨げとなる条件をなくすこと
今世において、住居、からだ、持物や財産などに欲望を持って執着していると、空を飛ぶ鳥の翼に石を縛り付けるようなもので、兜率天のような歓喜の地に至りたいと望んでも、望みを達成することができなくなってしまう。そこでその対策として、まず自分のからだに対する欲望と執着をなくすため、まず最初に法会の供物として(自分のからだを)幻のからだ(幻身)として捧げるべきことが第2偈の1行目に述べられている。
そこで、資糧の田(ツォクシン)を観想する。目の前の虚空に8匹の獅子に支えられた大きな広い玉座があり、その上に蓮華座と月輪の座があって、その上に恩深き根本のラマが尊者聖観自在菩薩のお姿で、前に観想した時と同じように坐しておられる様を観想する。その頭の高さに、根本の系譜に連なるラマたちを観想し、上半身の高さに四つのクラスのタントラに関係する守護尊(イダム)とそのマンダラにおわす仏たち、すべての仏陀と菩薩たちを観想する。下半身の高さには、声聞・独覚、空行母(ダーキニー)、護法尊、守護神などがすべて雲のように集まっておられる様子を観想する。
玉座の下の隅には、私たちが以前に害を与えた者たちが、私たちのもてなすべき客人となって控えている。玉座の下には、今世において深い恩を受けた両親をはじめ、六道輪廻のすべての有情たちが途切れなく無数に坐っている。要約すると、これらの客人たちは大地と空間のすべてを、ゴマ粒の中の油のようにいっぱいに埋め尽くしていると観想する。
資糧を積む方法について
次のような瞑想を行なう。
一般的に見て、自分は今までに、輪廻の中に有情としてのからだを無数に得てきた。特に、人間としての生も数え切れないほど得てきた。しかしこれらの生は、ただむなしく意味なく過ぎ去ってしまい、意義ある重要なことを何もすることはできなかった。この老いさらばえたからだを今世で得てから、今まで仏法を修行しようという真摯な決意をしたこともなかった。このからだを維持するために様々な悪い行ないをしてきた。今死を迎えて、このからだは空っぽの袋のようにあとに残り、このからだのためにしてしまった悪い行ないによって積んだ業のため、来世で不幸な生を得て、耐え難い苦しみを得ることだろう。つまり、このからだに執着することには何の価値もない。そのかわりこのからだに依存して、大いなる資糧を容易に積むべきである。そのために守護尊である聖観自在菩薩に祈願することが必要である、と考える。
そこで、自分の心が心臓の中で親指位の大きさの小さな聖観自在菩薩の姿となったと観想する。その聖観音菩薩全体が心臓の中に満ちて、心臓から飛び出して目の前の虚空にとどまり、死んだ自分の古いからだを見ていると考える。豊かで、魅力的で、脂がのっている様を観想する。そして、目の前の聖観自在菩薩のお姿であるラマに次のように請願する。「慈悲のお心深きラマである守護尊よ、私がこのからだに依存して、いち早く広大な資糧を容易に積むことができるようにお助けください。」
このように懇願すると、ラマである聖観自在菩薩が「オーム・アー・フーム」と唱えられ、それによって須弥山ほどの大きさの、人間の頭でできたかまどの火床にする石が三つ現われる。守護尊である聖観自在菩薩の心臓から、曲刀を手にしたダーキニーが出てきて、その曲刀で古いからだの眉間の上を横に割ると頭蓋骨が前に落ち、赤い色を飛び散らして三つの火床の石の上に置かれる。そこは三千世界よりずっと広いと考える。再び曲刀を持ったたくさんのダーキニーが現れて古いからだの肉や地や骨を切り刻み、それが一杯になるまで頭蓋骨の中に入れる。
再び守護尊聖観自在菩薩が「オーム・アー・フーム」と唱えると、この血と肉は汚れなき智慧の甘露に変わる。その色合いは、今太陽が昇ろうとするときのようなオレンジ色であり、その香りと感覚だけでも仏陀や菩薩たちの心を大楽で満足させ、六道輪廻の有情たちの苦しみを取り除くことができるようになった、と考える。
次に、自分の心臓から頭蓋骨を持ったダーキニーたちが出てきて虚空を満たし、ダーキニーたちが手に持つ頭蓋骨から尽きることなき甘露をひしゃくで空にふり撒く。根本の系譜に連なるラマたち、守護尊、仏陀と菩薩たち、声聞・独覚、ダーキニー、護法尊などに甘露を供養すると、彼らの心は汚れなき大楽によって満足し、喜びでいっぱいになった。これにより、法会の供養は非常に広大で容易に完璧になされた、と考える。
これと同様に、以前私たちが害を与えたことにより、その報復をしようとしている客人たちにも甘露を供養すると、彼らの怨恨は浄化され、私たちの借りはなくなった。そして私たちが害を与えたすべての者たちは聖観自在菩薩となった。(自分のからだを幻身として捧げる)
次に、恩深き両親や六道輪廻のすべての有情たちにも甘露を供養し、彼らも皆、輪廻における個別の苦しみとその因となった業と煩悩がすべて浄化されて清められ、前と同様に、環境世界のすべてが阿弥陀仏の浄土と変わった。そこに住む一切有情も聖観自在菩薩となったと考えて、前と同様に六字真言を唱えるなど行なう。
最後に、環境世界は光の中に溶け、それがそこに住む有情たちの中に溶け込み、一切有情は自分の中に溶け込み、目の前の虚空におられる根本ラマの中に溶け、その継承のラマたち、ダーキニーや護法尊に至るまでのまわりのすべての者たちも、自分に祝福を与えるかのように自分の中に溶け込んでくる。最終的に自分自身も溶けて消えたと考えて、供養の対象、供物、供養をする者、供養の方法などのすべてには、自性による成立は微塵もなく、実体のない空の本質を持つ存在であることを考える。このようにして、供養の対象、供物、供養をする者という三つのものにはすべて実体がなく、空の本質であることを理解する智慧によって封印された。
このような瞑想修行をすることにより、からだに対する欲望と執着を離れたが、まだ自分に身近な愛しい者たちや、持物、財産に対する執着を滅していないようであれば、それらを滅するための方法が偈の2行目に示されている。たとえ今世において、身近で愛しい者たちが大勢いたとしても、それは前世で積んだ業の力によるものであり、木の葉が風に舞うように、ほんの短い間のことでしかない。最終的には私たちを残して彼らも一人ひとり去っていくのであり、自分も彼らの元を去っていくのである。そして死を迎えた時には、親類縁者や親しい友人など、誰ひとり一緒に連れて行くことはできず、自分ひとりでこの世を去らなければならないことを考えて、彼らにも執着をしないようにしなければならない。
持物や財産も、バターから髪の毛を引き抜くように、死ぬ時はすべてを置いていかなければならないことをよく理解して、これらのものに対する執着をしないようにし、三宝に対する供養と僧伽へのお布施などをして、すべての有情たちに対するよき行ないをするように努力し、欲望と執着を少しも残さずなくすべきである。
2. 「ポワ」の修行を成就するために必要な条件を整えること
「ポワ」の修行を成就するために必要な条件とは、兜率天に生まれたいという強い熱望を持つように心を訓練すること、兜率天に生まれるように祈願すること、そのための因として自分の積んだ善根を廻向することである。
3. 実際の本行となる「ポワ」の実践について
実際に行なう「ポワ」の修行については、「光の管の修行によって、心を歓喜の地(兜率天)に発射するべきである」という偈の後半の2行に示されている。
「兜率天の仏法の宮殿」(ガンデン・チューキ・ポタン)と言われる、すばらしい宝石の首飾りで囲まれている宮殿があり、その中心に、「仏法により高められた宮殿」、「勝利の旗が高く掲げられた宮殿」と言われる尊者弥勒菩薩がおわすこの上なくすばらしい宝石の宮殿が二つ積み重ねられている。その前に、イガ・チュンジン(心を魅了する仏法の維持者、の意味)と呼ばれる弥勒菩薩が法を説かれる場があり、宝石の本質でできていて広大で大いなる喜びをたたえている。その中央に聖なる仏法のための獅子座があり、勝利者弥勒菩薩が金色のおからだで須弥山のようにまばゆいばかりの十万の太陽の光をたたえて、私たち南贍部洲に住む者たちの方に向かって坐しておられる。無数の菩薩たちの集まりに囲まれて、般若波羅蜜の教えをたくさん授けておられる(浄土の様子)を、自分もじかに拝見していると考える。(『現観荘厳論』など弥勒の五部論)
そこで、一心に強い熱望をこめて、「大いなる慈悲の心を持つ勝利者弥勒菩薩よ、私を輪廻と悪趣の恐怖から守り、今すぐ兜率天にお導きください。いち早くお導きください。今この場ですぐにお導きください」と懇願すると、尊者弥勒菩薩の心臓から、袖を引き伸ばしたような長いラッパ状の光の束が飛び出してきて、屋根の上の真中に開かれた換気口のような各自の頭頂の泉門にまっすぐ降り注いでくる。各自の心は、心臓の中で親指位の小さな聖観自在菩薩のおからだとなって包み込まれており、その聖観自在菩薩が、開かれた換気口のような各自の頭頂の泉門から上に向かって続いているラッパ状の光の束の道を下から凝視している。
そして、上方におられる尊者弥勒菩薩の、陽光があたる金色に磨かれたマンダラのように光り輝く金色の心臓を下からじかに拝見していると観想する。
そして、1)ラッパ状の光の束を道であると認識し、2)自分がその道を導かれていくと認識し、3)自分が尊者弥勒菩薩の心臓に転移していくと認識する、というこの三つの認識を心に維持して、再び前のような強い熱望を込めて祈願するとすぐに、尊者の心臓から光のフックのようなものが光の束の真中にある穴の中から降りてきて各自の頭頂の泉門から入り、聖観自在菩薩であると観想した各自の心にあたって、それをフックで引っ掛けるようにして余すことなくすべてを上に引っ張りあげ、各自の心は泉門から遠くへと飛び出していく。そして各自の心は、ラッパ状の光の束の中を妨げられることなく流星のように進み、尊者弥勒菩薩の心臓にまっすぐに飛び込んで溶け込んでしまう。このようにして各自の心と尊者弥勒菩薩のお心が一つの味に混ざり合ったと考えて、その状態にしばらくとどまる。
そして、各自の心は再び尊者弥勒菩薩のお心から飛び出してきて、弥勒菩薩が法を説かれる場で、千の花弁を持つ蓮華の真中に、守護尊聖観自在菩薩の子として、卓越した知性と最勝なる智慧を備えた大乗の教えに熱意を持つ恵まれた者として生まれた、と観想する。そして、弥勒菩薩の教えの甘露を満ち足りることなく飲んでいると考える。
(3)中有の修行である「融合」についての解説
第三の主題として、中有における修行の心髄である「融合」について根本偈にはこのように述べられている。(「融合」とは二つのものが溶け合ってひとつの本質のものとなること)
第3偈
これを中有であると知り 外・内・秘密のものを変容させて 空と慈悲のヨーガにより 賢者は入胎するべきである |
この実践には三つの要点がある。
偈の1行目では、中有の状態にいる時にそれを中有であると認識する方法が示されている。つまり、中有にいる状態の自分に今現れているすべてのものは、中有における錯乱した現われなので、中有にいる時それを中有であると認識することが必要であると考えて、何度も繰り返し瞑想することで心になじませていく。すると、のちに中有の者として生まれた時に「今自分は中有に生まれている。今のこの現われはみな、中有の現われなのだ」と考えて、中有を中有であると認識することができるようになる。これは、夢の中にいる時にそれを夢だと認識する時も、日中継続的に注意深さを維持することによって、夢を夢と認識することができるようになるのと同じである。(空の瞑想)
偈の2行目では、中有における実際の修行について説かれている。
ここで、「外のものを変容させる」と言われているのは、今この時から、私たちの目に映る大地、石、木の三つなど環境世界に存在するものが現れてくる時、それらの現われは、今自分が中有の状態にいるための錯乱した現われであり、実際にはそれらのものはその現われのようには存在していないのだ、と考えなければならないことを意味している。そこで、不浄なものの現われによって心が惑わされないように、これらをみな阿弥陀仏の浄土など清らかな現われに変容させて瞑想するべきである。
同様に、「内なるものを変容させる」とは、環境世界の中で生きている人間や動物など様々な有情たちが現れてくる時も、これらのものをすべて、聖観自在菩薩のお姿に変えて瞑想するべきことを意味している。
さらに、「秘密のものを変容させる」とは、環境世界とそこに住む有情たちの両方が、それ自体の側から成立しているように現れてくる時、そのような現われは、自分の心が実体にとらわれる間違った考え方とその習気に汚されているためにそのように現れているだけであり、その現われのように、それ自体の側から成立している独立した実体など微塵ほどもないのだと考えて、そのように瞑想することを意味している。
このように瞑想していると、中有に生まれた時に、地獄や死の神ヤマの世界など汚れた世界の現われが生じても、その汚れた世界を阿弥陀仏の浄土に変容させ、剣をふるう死の神ヤマが追いかけてくる現われが見えた時も、ヤマの姿を聖観自在菩薩のお姿に変えて見ることができるのである。このように心を訓練していくと、すべての現象はその現われのようにそれ自体の側から自性によって成立しているのではなく、空の本質を持つものであると考えることができるようになる。
偈の後半の2行では、自分の意志によってこの輪廻に生を受ける方法が示されている。仏法を修行することのできる暇とよき条件がすべて揃った恵まれた生を受ける時、中有において両親が一緒に寝ているのを見て、男性として生まれることになっている者は、父に対して嫌悪を抱き、母には執着の心を持つ。その時、自分が嫌悪している父が、無始の時から自分にとって大変親切にしてくれた人であることを考えて、集中的に父に対する強い慈悲の心を培う瞑想をする。それによって父に対する嫌悪感を滅することができる。執着の対象となる母の姿が現れてきても、母もまたそれ自体の側から自性によって成立しているのではないということについて瞑想するならば、母に対する執着を滅することができる。そして、「私がこの母の子宮に生を受けたなら、残りの修行道を実践し、一切有情を救済するという大いなる目的を達成しよう」という心の動機によってこの世に生まれてくることができるのである。
(4)これらに加えて、見解、瞑想、実践の重要な点を示す
第四の主題は、以上の点に加えて見解、瞑想、実践についての重要な点を説明している。
現れてくるすべてのものを認識すること、これが見解の要点である それから心をそらさないこと、これが瞑想の要点である 注意深さ(憶念)の味を平衡に保つこと、これが実践の要点である これが偉大なる成就者(ミトラジョーキ)の教えである |
自分の心に現れてくるすべてのものを認識して、その現われのようには存在していないということを心に確立させることが見解の修行の要点である。心に確立したその意味に一点に集中し、気をそらさずに瞑想することが瞑想の修行の要点である。輪廻と涅槃におけるすべての現象は、自性による成立のない空の本質を持つものであるという味を維持し、その状態に注意深くとどまることにより、利他行をなすために勝利者の息子(菩薩)の修行を実践することが実践の要点である、と言われている。4行目で、「これが偉大なる成就者(ミトラジョーキ)の教えである」と言われているのは、これまでに説明されたことはみな尊者ミトラジョーキが説かれた教えであることを示しているとともに、この偈は尊者ミトラジョーキのお言葉ではないことが明らかにされている。
以上で、『三つの心髄の教え』として広く知られる修行の段階についての教えは完結し、大変わかりやすく実践しやすいように説明した。
白い蓮華を持つ方(聖観自在菩薩)のお心の海から
善く語り伝えられた深遠なる道は
真珠の首飾りとして善き教本の糸で綴じられている
これは恵まれた誉れ高き女性(パルデン・イェシェ・チュドゥン)の首飾りである
この努力によって生じた善き功徳によって
一切有情が悪趣の崖から解放され
喜びにあふれた兜率天の宝石の宮殿で
最勝なる大乗の甘露という栄光を享受することができますように
『三つの心髄の教え』についてのこのわかりやすい註釈書は、教えと教えの維持者に対する変わらぬ最高の信心を持ち、恵まれない人々に施しの手を広くさしのべられた偉大なる有情の母、パルデン・イェシェ・チュドゥンの深遠なる修行をますます高めるために、説法者であり、誉れ高き尊者〔ダライ・ラマ二世〕ゲンドゥン・ギャツォによりオルカ・タクツェルの宮殿において著され、サンゲ・ゴンポという人によって書き記された。
Japanese translation by Maria Rinchen, 2003, revised 2016.